レオくん (フラワーコミックスアルファ)
僕、猫が人間のことを「おとうさんがご飯を食べさせてくれたにゃん」とか言う漫画って、苦手なんですよ。いい悪いとかじゃなくて「苦手」。
だって根本的におかしい。
動物が人間を「おとうさん」って思ってるわけじゃないじゃないですか。
動物みたいに人間とは違う生き物が、自分に無条件になついてくれたとして、それを「おとうさん」と言っていると勝手に翻訳していいのだろうか、と。
動物はなにか考えてるかわからないのに、それを人間の言葉で翻訳するというのがそもそもムリな話ではあるんですが、「人間に対する、愛してくれる『ように見える』動物の行動」が、子どもが親に対するそれと同じであり、お互いに愛を交わし合っているという認識は、そもそも錯覚なのではないでしょうか 。
動物が自分にだけはなついてくれて、他の知らない人にはなつかないのは、それは「この動物は、自分だけを愛してくれる」のではなく、ただ単に防衛本能から、「知らない人間にえさをもらうより、知ってる人間のほうが安心」と思ってるからかもしれない。
犬や猫の殺処分は、年間でおよそ30万匹にものぼるといいます。「経済的な理由で飼えなくなったから」「病気になったから」「引っ越すから」いろんな人間側の理由はありますが、僕が一番気持ち悪いなと思うのは、「なついてくれないから」です。
そんなのしょうがないじゃないか!
なんでなついてないってわかるんだー? 猫や犬に聞いたのか? 超能力者か?
動物が自分に期待する行動(しっぽをふるとか甘えるとか)をとらなかったからといって、「なついてない」ってなんでわかるんだー?
そもそも、ここには世話をしさえすれば動物は人間を無条件に愛してくれるという、傲慢さが現れてれる気がする。人間は、なんで動物に無条件の愛情を期待するんだろう。人間はそんなに動物に愛されるに足る生き物だろうか。
「動物大好き!」のまさに「猫かわいがり」の心理は、「私はこんなに愛してるのに、愛してないから殺す」というストーカーや、「子どもが自分の想い通りにならないから、好きになれない」と育児放棄する親と、紙一重な気がして、どうしてもなんだか好きになれないんです。
たしかに動物はかわいいとは思うし、それを責任もって飼ってる人はいいんだけど、愛という名前で巧妙に隠された暴力があるような気がして、ちょっと背筋が寒くなる。 人形大好きな女の子が、誰も見ていないところで人形をつねったりしているような。愛だといって、いつまでも子離れできないで子どもの幸せをも台無しにしている親のような。
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とまあ、前置きだけで暴走してしまいましたが、
本題で
『レオくん』
の感想いきます。
今年、デビュー40周年(生誕ではありません)を迎え、flowersで特集もされた、萩尾望都先生の猫漫画。
萩尾望都先生自身が飼っているシマ模様の猫の「レオくん」をモデルにした漫画で、レオくんが立ってしゃべれる、そういうパラレルワールド世界の漫画です。
レオくんは、給食に憧れて学校に行ってみたり、お見合いしてみたり、仕事してみたりといろいろチャレンジしてみるのですが、いかんせん猫なので、人間社会には適応できず、何も学ばないし成長しないままゴロゴロしてます。
レオくんを人間社会に置いてわかる事は、猫から見た人間の窮屈さや滑稽さ。
レオくんは、学校にいけば机にじっと座ってられず、先生や生徒たちに叱られて泣いたり、庭で勝手にトイレするし、お見合いでは「お料理できる男がいい」と言われればネコ缶を出したり、「子どもが欲しい」と言われれば「僕去勢してるんで」と答えてご破算になったりします(『レオくん』の世界ではネコと人間で子どもが作れるようです。夢の獣属性が・・・ゴクリ)
レオくんが動物雑誌の編集部に入ったときは、ネコにグルメを語ってもらおうという企画を立案し、これは成功します。なんてったってネコはグルメなので。
「ネコ伊勢のビーフね。ゼリー寄せが大好き」
「わしゃな。チャオチャオのトロ風味シリーズがいいな。スープたっぷりでたまらん」なんて饒舌に語ってくれます。
調子に乗ったレオくんは、次号では犬のグルメを特集するのですが、犬は
「好き嫌いはありません。ずーっとこれ食べてますマイドック」
「朝の9時と夜の7時にいつもチャームドックですよ。ええ」と、犬はグルメに向いてないことが判明。雑誌が売れなかったことがショックで、レオくんは退職してしまうのでした。
そうだよなあー。犬はグルメじゃないよなあ。
レオくんはいろいろチャレンジしても、ネコなのでご飯と遊ぶことしか考えておらず、むしろ周りの人間たちがその姿に救われます。
好きな話は、「ヤマトちゃんの恋」というお話で、レオくんが一度だけ学校に来たとき、後ろに座っていた女の子のヤマトちゃんが、レオくんが何もできなくて失敗ばっかりしてみんなに笑われるのを見ていて
(しかたありません。レオくんはバカなんです) と思いながら、一生懸命なレオくんのことが気になります。
明日はレオくんに会える、と思って次の日学校でレオくんを探しますが、レオくんは学校には来てません。
(そんなのずるいよ! 私はがんばって学校にきてるのに、レオくんはこないんです もし私が学校に行かないで遊んでたら、パパとママにすごくしかられると思います) ヤマトちゃんは、公園で遊んでるレオくんに言います。
「レオくんあしたは学校にくるの?」 「学校はいいのぼく バッタとったりモグラとったり、ヤモリと遊んだりして忙しいんだもん」 「レオくん遊んでばかりじゃだめだよ。お勉強しないと立派な人になれないんだよ」 「いいもん。だってぼくネコだもん」 それを聞いて、ヤマトちゃんはポロポロ泣き出します。えっ!? とびっくりするレオくん。
(私はお勉強のことが言いたかったんじゃありません。レオくんに学校に来てほしいだけなんです) 「ぴょんぴょんして遊ぼうよ」というレオくんに、
「お勉強があるから」と断ります。
「あ そうだね。りっぱな人になるんだね」とレオくん。
(そうです。私はネコじゃないからです) そして、最後のページでは、レオくんが次また学校にきたときは、私がお勉強も教えてくれあげるし、一緒に歌えたらいいな・・・・というヤマトちゃんの空想のシーンで終わります。
このお話が、ツボにはまってしまって・・・・泣けてしょうがなかった。
ヤマトちゃんはこれから、ママが言うみたいに「りっぱな人になるために」勉強しなくちゃいけないし、レオくんはネコだから死ぬまで遊んで暮らすんでしょう。
二つの道は相容れないけれど、それでも「こんな生き方もあるんだ」と思うことで、ちょっとヤマトちゃんは救われたと思うんです。 その、相容れない距離感。けっして混じらないけれども、この距離感を信じていられるのが、愛だと思うんです。
『レオくん』は飼い主のことを「ママ」って言ってるけれども、でも「距離感」わかってるからいいんです。猫がかわいすぎる漫画が多すぎる。萌えとか、お母さんってしゃべるとか本当にどうでもいいじゃん。猫なんてどうにもならないんですよ。もっと言えば、人間だってそうなのに、人間がわかりあえなかったのを猫で紛らわしちゃ、だめだと思うんです。ちゃんと二次元だから好きにしていい、三次元はそうじゃないよね、と、『yesロリータ Noタッチ』みたく二次元とリアルを別だと自覚してるのはいいと思うんですけど、こと猫や犬に関しては、過度に愛を期待しすぎな気がする。
あと、『グーグーだって猫である』の映画のオーディションに行くお話とかすげえよかったですよ。