自分のための、ドリーミング関連抜き書き。
山口大学人文学部の宗教学研究室のWebサイトから。
====== アボリジニの芸術・社会・文化から見る宗教(1) ======
2.ドリームタイム
○世界創造の時代/夢見。19世紀に、主に西洋の人類学者が、アボリジニの諸言語の間で使われていた類似する概念を翻訳しようとして用いられるようになった語。
○創世神話。先祖(人、動物、超自然的な力をもつ存在、曖昧な存在)による世界の創造。「先祖は不毛な未分化の野原を横切るように移動/旅しながら世界を構築した」。「先祖は旅に出る前に、翌日の冒険や出来事について夢を見た」。「先祖は夢を行動に移しながらあらゆる自然物、人間、部族、氏族、動物、植物を生み出した」。「これらの存在は互いに入れ代わることができる」。
○「過去の物語」ではない。直線的な時間/歴史的過程として解釈されるのではなく、現実の次元を指す(今を基礎づける、終わりのない物語)。
○ドリームタイムはアボリジニの住む空間と永遠に結びつく。ドリームタイムは居住地を基礎づける/形作る/活かす。居住空間と地形は、ドリームタイムとの結びつきを保った存在である(結びつきあっての存在)。
○アボリジニの生活は、旅と野営をしながら、その時々とその空間がドリームタイムの物語を反映する。ドリームタイムは、従うものではなく、実現するものである。先祖が見て実現した夢を、今も、永遠に、アボリジニが見て実現する。
○ドリームタイムは「進歩」「進化」を想定しない。アボリジニには元々時間という概念は知られておらず、「去った時間」(過去)も「来る時間」(未来)も存在しない。ドリームタイムは、過去から未来へ向かう運動ではない。そこには時間的な経過も、歴史も、時間の距離/幅/間隔も、存在しない。あるのは、夢の世界と現実の世界を結びつけるもの、すなわち、主観的状態から客観的状態への表現/実現であり、つまり内面と外面にまたがって起こる物事や出来事の移り変わりのみである。
○同じように、空間も、距離・幅・間隔として捉えられることはなく、意識と無意識の関係として捉えられる。空間にある知覚可能な実在は意識に相当し、対象間に存在する見えない空間は無意識(=夢/睡眠/死/観的状態、つまりはドリームタイム)に相当する。
○ドリームタイム/神話による、<無限の>時間と空間の不均質化/聖化/聖別。心的表現としての「無限の時間」と「無限の空間」の構造化/持続化。
○アボリジニにとっての芸術は、ドリームタイムの手段でもある。この場合のドリームタイムは、心の内面的世界であると同時に、生に対する、外的な大枠の文脈である。
○芸術は、時空間における人間(自分たち)の位置づけである。生活世界/時空間の不均質化/聖化/聖別。
○また芸術は、トーテミズムの表現/実現である(年齢、性別、トーテムの系列、部族・氏族関係、など)。
======アボリジニの芸術・社会・文化から見る宗教(2) ======
2.アボリジニにおける宗教=芸術の諸側面
【全般】
○岩壁画(ロック・ペインティング/ロック・アート)、樹皮画(キャンバス画)、儀礼/ダンス/ボディー・ペインティング。
○ドリームタイムの世界観の現れ(復元、実践、維持)。
○ドリームタイムの主役や霊たちを作品に宿らせ、動物・自然・先祖の霊を引き出すこと。そして同時に自らも主役・主人公になりきること。過去という時間、見えない霊界、祖先のすべてが、一体化し、連続するものとして演じられる(→ 精霊「ミミ」)。
○呪術(感染/近接、模倣/類似、シンボル)。夢/希望/願いと現実の媒体。
○白人による侵入の実態と歴史。
○心の表現の手段(心にある多様なありさま)。ただし、どれも生活にとって究極的・包括的な位置と意味をもつ。きわめて宗教性の濃い/宗教的な芸術。
○芸術の過程の中で、素材や場所が同時に神聖性を帯びている。
【トーテム性/トーテミズム】
○「トーテムの風景」、地図/見取り図、図案(→ 北米インディアンにおけるトーテム・ポール)。土地または居住している世界の構築。
○鳥瞰図:空中から地上を見下ろした図。
○しかしその一方で、シンボル/記号<体系>による表現を重視する。観念世界(動物・自然・祖先のすべてを含むドリームタイム)の表現。あたかも地理的な関係、比率、相対的な位置/方向のすべてが無視される。抽象化。
○⇒ この場合の絵画は言語の役割をも担う。
○動物を描く際のレントゲン手法(主に岸壁画)。
○動物を真似る踊り。自然と動物と自分たちを同じ文脈に位置付ける際の、自然・動物の様式の採用。
○⇒ 単に動物と自然の構造化ではなく、見えない世界/霊界による枠組みの再確認。
【二次元性と無時間性/超時間性】
○ドリームタイムを純粋に表現するならば、現代人のように時空間の存在性を明確に構造化することはできない。
○芸術作品が、自分たちの存在のみならず、自然・動物と見えない世界/霊界も含むならば、地上/この世の字空間に固定することはできない。
○⇒ 世界宗教における時間観と比較。
【現代アボリジニの子供に引き継がれるU字型シンボル】
○「U字型」とは? U字型は、何かを表現する絵として、線として、シンボルとして、多様に用いられる。踊るときのボディー・ペインティング(胸の図柄)として用いられる。全体の模様は、一族の土地を象徴する面がある。大人が物語りを語るときにも用いられる。画家のキャンバス画にも見られる(→ メルボルンの国立ビクトリア美術館の絵)。
○U字型はアボリジニの視覚言語/記号である。
○芸術と生活(つまり宗教)が一体となった暮らしの中で子供たちは、自然に親や大人から記号の意味を理解する。
○U字は、重要な儀式に参列する人々(女性)を表す。大きなU字は、重要な地位にある女性たち。黒と赤の円は、重要な儀式が行われている場所を示す。
○上から見た(空から眺めた)様子を記号化したもの。
○ただし単一に解釈できない。状況に応じて、違った事柄を象徴する。くねった線が、川や蛇を示す場合もある。円は、井戸、野営地、焚き火を表す場合がある。また、色調や色合いには、自然(たとえば砂漠の雰囲気など)の様子が用いられる。
○現代アボリジニの子供たちの、二重記号(独自の文化と西洋文化)。
○⇒ ドリームタイムの表現。記号の意味の可変性。二次元性。
====== アボリジニの芸術・社会・文化から見る宗教(3) ======
1.「ドリーミング芸術」
【ドリーミングと芸術の結びつき】
○ドリーミングの中身は「自然」「性」「死」に関する。
○祖先が創造した土地、動植物、人間関係(親族・男女関係など)に、またその創造過程(旅、狩り、芸術活動など)に、積極的に参与すること。
○「過去との連続性を維持する」という<積極的な>美術・芸術の創造過程。→ アボリジニがドリーミング<の存続>に対して担う義務。
○ドリーミングとの双方向的な関係。その中で、ドリームタイムという現実は、変化する。→ 親族関係と土地/地形。「自然界・動植物」「人間・社会」「死者・祖先・霊界」の再構築。
○ドリーミングに依拠する芸術(また宗教)は、過去のものではなく、現在に属するものである。
【ドリーミングと無意識】
○「アボリジニに言わせれば、ドリームタイムの創造とは、この世に歌い出された世界なのだ。人類も当初は、意識の主観的なエネルギー状態として存在する。夢、直感、そして思考は、振子のように揺れながら、外界を対象化してゆく。物質の創造や活動に参加するようになると、意識の振子は一転して、客観的実在から主観的状態へと振り戻される。『記憶』という名のこの振り戻しによって、森羅万象の残りの土台が生み出されるのである。」(p.62)
○「アボリジニの諸言語には、『時間』に当たる言葉がない。アボリジニには、『時間』という概念がないのである。アボリジニの言う『創造』では、時間の経過や歴史は、過去から未来への運動ではなく、主観的状態から客観的状態への移りゆきを意味する。アボリジニの世界に参入するための第一歩は、西欧社会の伝統ともいうべき抽象的時間概念を捨て去ることである。その代わりに、『夢見から実在が生じる』とする意識の運動モデルを想定すれば、創造プロセスに見られる宇宙規模の作用にも納得がゆく。アボリジニが毎日のように披露する儀礼の舞や歌謡は、『世界創造の要』だった主観から客観にいたる運動を祝うためのものだ。こうした発想は、日常生活の隅々にまで浸透している。アボリジニは今でも、狩りの前夜には一睡もしない。眠っている飼犬の様子を注意深く観察するためである。夢を見ている飼犬が吠えたり、唸ったりすれば、獲物を捕まえた夢を見ているという証拠である。だからその犬は、翌日の狩りのお供に選ばれるのだ。」(p.64)
○森羅万象(すべて)に、ドリーミング(夢見)がある。
○「土地や動植物を何らかの目的で利用したり、食べたりする場合にはまず、土地や動植物の夢見に入り込む術を身につけねばならない。」
○空間(「時間」も)は距離/感覚/幅ではなく、意識の世界である。意識同様、二つのモードに分けられる。空間内にある知覚可能な実在は意識に相当し、対象間に存在する肉眼では見えない空間は、無意識に当たる。
○「『無意識』とは、夢見という連続体の一部なのだ。西欧文化では、無意識が現れて活動するのは明らかに、睡眠中や夢を見ている場合のみとされている。アボリジニの言う無意識とは、常に存在し、存在のあらゆるレヴエルに浸透している。それはちょうど、肉眼では捉えられない空間が、銀河から原子の内部にいたるまでの森羅万象を満たしているようなものだ。意識とはまさに、森羅万象そのものといえるだろう。それは、覚醒と睡眠、生と死のあいだで出現と消滅を繰り返しているのである。」(p.68)